その説教の聖句はヨハネ福音書11章1~7節だった。マルタ及びマリアの弟ラザロが危篤で、彼女たちは助けを求めイエスの元に人を遣わした。ところが、イエスは「この病気は死で終わるものではない」(4節)と言われ、ラザロの枕辺に急ぎ赴こうとはなさらなかったのである。
この日の私の説教では、主イエスが時間を支配しておられる点をテーマにする予定だった。人の目からは遅れているように見えたとしても、それも含めて神の配慮は行き届いていると言いたかったのだ。したがってイエスによってラザロが墓から蘇らされる有名な結末については、別テーマの説教の中で翌週以降に扱うつもりでいた。
私は説教を始めて間もなく、涙を流して聞いている女性に目が留まった。まだ序論である。感動させることは何も話してない。常識に反する失礼なことも言ってないはずだ。なぜだ。気にかけながら語っていると、ようやく思い出した。彼女の実弟が数年前に亡くなっていたのである。
「しまった!」手遅れだ。悲しませてしまったが、いまさら聖句を差し替えることは
できない。かくなる上は説教に手を加えるしかない。
「このラザロは後日イエスさまによって蘇らせてもらったんですけれども、それは私たち人間が一度は死んでも復活させられるという保証なのであります。」
礼拝が終わり、その女性が退席する際に見せた笑顔によって、その説教は出来上がった。
ラザロの姉マリアは、貴重な香油を主イエスの御体に塗り、髪でぬぐった。―この御方は弟を助けるために御自身の生命を犠牲にされる―。彼女の胸中を、あなたはどう察するか。
2010年2月12日金曜日
2010年2月5日金曜日
人の子
御自身を指す一人称として、しばしば主イエスは「人の子」という語を用いられた。
これは旧約聖書ダニエル書7章13、14節の引用である。
「夜の幻をなお見ていると、
見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り
『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた。
諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。」
主イエスが言わんとされた人の子とは、単なる人間の子どもという意味ではないことが分かる。人間の姿を取って天父の御元から下って来た者、また、やがて雲に乗って来られ永遠にわたり統治なさる御方、その人である。したがって人の子は、本来の意味での神でいらっしゃるのだ。
イエスの在世当時またそれ以降も、自称メシア達が世にはばかっていた。そのため、メシアとか救い主とか聞いても多くの人は辟易し、またか、また偽者かと警戒するのが関の山だったわけだ。そこで主イエスは、ユダヤ人なら誰でも知っている預言の聖句を踏まえることで、御自身の神性に関する信憑性を保とうとされた。しかも字面だけ見ると自身のことを神だとは言っていないため、冒涜だ罪だと揚げ足を取ろうとするパリサイ人からの批判をかわすこともできる。信じる意志ある者には「日の老いたる者」の元から来た神の子として理解されるが、信じる意志なき者には裁きの時機まで人間として振る舞われる。
人となられたキリスト・イエスは、人間として最大限に知恵を活かしつつ、御自身の属性を世に顕わされたのである。
これは旧約聖書ダニエル書7章13、14節の引用である。
「夜の幻をなお見ていると、
見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り
『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた。
諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。」
主イエスが言わんとされた人の子とは、単なる人間の子どもという意味ではないことが分かる。人間の姿を取って天父の御元から下って来た者、また、やがて雲に乗って来られ永遠にわたり統治なさる御方、その人である。したがって人の子は、本来の意味での神でいらっしゃるのだ。
イエスの在世当時またそれ以降も、自称メシア達が世にはばかっていた。そのため、メシアとか救い主とか聞いても多くの人は辟易し、またか、また偽者かと警戒するのが関の山だったわけだ。そこで主イエスは、ユダヤ人なら誰でも知っている預言の聖句を踏まえることで、御自身の神性に関する信憑性を保とうとされた。しかも字面だけ見ると自身のことを神だとは言っていないため、冒涜だ罪だと揚げ足を取ろうとするパリサイ人からの批判をかわすこともできる。信じる意志ある者には「日の老いたる者」の元から来た神の子として理解されるが、信じる意志なき者には裁きの時機まで人間として振る舞われる。
人となられたキリスト・イエスは、人間として最大限に知恵を活かしつつ、御自身の属性を世に顕わされたのである。
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