2010年2月12日金曜日

「こうして説教は出来上がる」

その説教の聖句はヨハネ福音書11章1~7節だった。マルタ及びマリアの弟ラザロが危篤で、彼女たちは助けを求めイエスの元に人を遣わした。ところが、イエスは「この病気は死で終わるものではない」(4節)と言われ、ラザロの枕辺に急ぎ赴こうとはなさらなかったのである。

この日の私の説教では、主イエスが時間を支配しておられる点をテーマにする予定だった。人の目からは遅れているように見えたとしても、それも含めて神の配慮は行き届いていると言いたかったのだ。したがってイエスによってラザロが墓から蘇らされる有名な結末については、別テーマの説教の中で翌週以降に扱うつもりでいた。

私は説教を始めて間もなく、涙を流して聞いている女性に目が留まった。まだ序論である。感動させることは何も話してない。常識に反する失礼なことも言ってないはずだ。なぜだ。気にかけながら語っていると、ようやく思い出した。彼女の実弟が数年前に亡くなっていたのである。

「しまった!」手遅れだ。悲しませてしまったが、いまさら聖句を差し替えることは
できない。かくなる上は説教に手を加えるしかない。

「このラザロは後日イエスさまによって蘇らせてもらったんですけれども、それは私たち人間が一度は死んでも復活させられるという保証なのであります。」

礼拝が終わり、その女性が退席する際に見せた笑顔によって、その説教は出来上がった。

ラザロの姉マリアは、貴重な香油を主イエスの御体に塗り、髪でぬぐった。―この御方は弟を助けるために御自身の生命を犠牲にされる―。彼女の胸中を、あなたはどう察するか。

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