「初めに、神が天と地を創造した」という場合の「初めに」は、人間の目から見た初めにである(創世記1:1)。すなわち、それは神にとっての初めにではない。神は、それ以前から神でいらっしゃった。それ以前のことは人間には理解できない。それ以前は永遠の領域である。それ以前を理解できるのは永遠の御方だけだ。人間の立場に立って「初めに」と書き記すことを、神はお許しになった。
おそらく元来はキリスト教の用語であろう永遠は、仏教的な響きを伴う悠久とは若干意を異にする。『広辞苑』によると、どちらも「果てしなく長く続くこと」であるが、永遠には「始めもなく終りもなく」との修飾節が加えられる。それは、単に時間的な長さを意味するのではない。始めも終りもないのだから、時間を超えた価値観である。永遠なる神が時間をも創造なさった。文字通りの永遠とは、神を抜きにしては考えられない概念なのである。
主なる神は言われる。
「わたしは初めから既に、先のことを告げ
まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。
わたしの計画は必ず成り
わたしは望むことをすべて実行する。」(イザヤ書46:10)
神は時間に制約されない。聖書に描かれた歴史が人間の目には悠久に思われても、神の御目には一瞬であるのかも知れない。私たちの生きる現実が気の遠くなる長さに感じられても、神の計画で既に準備された終着点があるに違いない。
初めに―。それは、有限の被造物に永遠なる神が触れてくださった瞬間である。
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